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政治ドットコムトピックス時代が産んだ徒花「鹿鳴館」は日本に何を残したのか(明治16年11月28日落成式挙行)

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時代が産んだ徒花「鹿鳴館」は日本に何を残したのか(明治16年11月28日落成式挙行)

投稿日2020.12.6
最終更新日2020.12.09

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明治16年から20年までの約5年間、日本は鹿鳴館時代と呼ばれます。国を挙げての極端な欧化政策はなぜ行われたのか。同時代を生きた人々は、鹿鳴館をどう見ていたのか。最新資料と当時残された資料とを合わせて振り返ります。

なぜ鹿鳴館が必要だったのか

国賓や外国の外交官を招く場として建設された鹿鳴館。この建物を舞台に行われた彩り華やかな一連の外交政策は日本の文化にも影響を及ぼしました。
当時、日本は列強と結んだ不平等条約の改正を最重要課題としていました。
特に外国人に対する治外法権の撤廃を目指して交渉を続けていましたが、いかんせん、その直前まで日本で実際に行われていた打首やそれに伴うさらし首、切腹などの慣習を外国人たちは目の当たりにしています。

「自分たちの国の同志たちにも同じ仕打ちをするに違いない」、そう考えた海外の国賓たちは、なかなか日本の主張を認めようとしません。
この状況を打破するために、「日本は野蛮国ではない、発展途上国でもない、あなたがたの仲間であり、同じ文化や価値を共有する者である」と強調するために、外相の井上馨を中心に極端な欧化政策が取られます。

その一環として建てられたのが鹿鳴館でした。
1880年(明治13年)に着手され、完成したのは3年後の1883年(明治16年)7月7日。4ヵ月後の11月28日には1200名を招いた盛大な落成式が挙行されました。
鹿鳴館のあった場所は、千代田区内幸町。現在の帝国ホテル隣にあるNBF日比谷ビルあたりです。
イギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計したこの建物は、煉瓦造2階建て。1階には大食堂、談話室、書籍室などがあり、2階には舞踏室があり、3室を開け放つと100坪の大広間となる瀟洒な建物でした。

落成以後、鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会が頻繁に行われます。
しかし、わずか16年前まで日本はちょんまげを結っていた江戸時代。日本人の参加者たちは精一杯努力して、外国人たちを接待していましたが、食事のマナーも、服の着こなしも、パーティーでの立ち居振る舞いも、ダンスの所作も、なにもかもが様にならず、参加した外国人たちはその場では和やかに接しているものの、帰宅後の日記では「なんとも滑稽である」等、嘲笑していたことが現在の研究で明らかになっています。

あまりに過度(に見えた)な欧化政策は国粋主義者たちを中心に猛反対を受け、その中心にいた井上馨は激しい非難にさらされます。
やがて、井上が手掛けていた条約改正の内容が社会に明らかになると、外国人判事の任用条項が含まれていることから不平等がまったく解消されていないと批判を受け、鹿鳴館外交は激しい逆風にさらされます。
世論に抗えず、井上は1887年(明治20年)9月に外相を辞任。鹿鳴館時代は幕を下ろします。

当時の識者たちは鹿鳴館をどう見ていたのか

「従来の日本の習慣を破って、何でもかでも欧米の風俗を模倣し、婦人の洋服や束髪を誘導して見たり、内外男女の交際を奨励したりするのはまだしも、そのため或いは人種改良と称して内外人の結婚を唱え、甚だしきは日本を耶蘇教国にしようと主張する者さえ現れた。」

「そもそもダンスとは何ぞや。西洋の盆踊りではないか。一方では日本固有の盆踊りを、卑俗低猥なりとして禁じながら、自ら西洋の盆踊りを演ずるとは何事であるか。
しかも、ダンスさえすれば、条約改正が成就するかの如く思って、謹厳そのもののような山縣公(※筆者注:山縣有朋)や、野人自ら居る西郷候(※筆者注:西郷従道か)などまでが、妙な扮装をして踊り狂ったとあっては、バカバカしいよりもむしろ気の毒千万であった。」
※ともに「日本憲政史を語る」尾崎行雄著より

憲政の神様、尾崎行雄による鹿鳴館時代の回想です。
欧化政策への反発は一部で根強く、「伊藤博文や井上馨は日本をキリスト教国にしようとしている」とまで非難されていたことがわかります。
一方で、当時はまだ外国人との結婚や日本人と外国人のハーフへの偏見は根強くありました。それでも「内外男女の交際を奨励するのはまだしも」と、「キリスト教国になるよりはマシ」と捉えているように見える点は興味深いものがあります。
また、鹿鳴館で行われる舞踏会でのダンスを「西洋の盆踊り」と呼び、そんな場に古き良き武人であった山県有朋が扮装までして参加させられるのは気の毒だと語っています。

「なにしろ大臣や大将ともあるものが、仮装会だといって、役者のように白粉を塗りカツラを付けて踊ったというのですから、東京中の人が驚異の眼を見張ったのも無理はありません。
伊藤博文、井上馨などが奇抜極まる変装をして、ドッとお客を笑わせると、真面目一方で笑った事のないという山県有朋が、緋縅(ひおどし)の鎧に長柄の槍を横たえて出てくる、大山巌がちょんまげのカツラを被って裃(かみしも)を着て躍りだすという騒ぎです。」※「明治時代」西亀正夫著

山県らが駆り出され、仮装舞踏会で「古来の武士」を演じさせられていることがわかります。
伊藤や井上のように、「奇抜極まる変装」はさすがにプライドが許さなかったのでしょう。

「荒涼たる日比谷の原の闇の中で、髪をオドロに振り乱した半狂乱の貴婦人が、悪鬼に追われるように逃げ惑っていたなどというような噂が立ち、それが毎日の新聞紙を賑わすというようになり(以下略)」※「明治時代」西亀正夫著

やがて、近隣ではあらぬ噂が立つようになっていったようです。
国家プロジェクトに関われる上流階級の女性が、半狂乱になって建物外まで逃げ惑うということは常識的には考えられませんので、話半分に受け取ったほうが良いでしょう。ですが、そんな噂が立つほど世間から白い目で見られていたというひとつの証拠と言えるかもしれません。

「当時の欧化熱の中心地は永田町で、このあたりは右も左も洋風の家屋や庭園を連接し、瀟洒な洋装をした貴婦人の二人や三人に必ず会ったものだ」
「このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら霞が関を下りると、その頃練兵場であった日比谷の原を隔てて鹿鳴館の白い壁からオーケストラの美しい旋律が行人を誘って文明の微醺(※ほんのりと酒に酔うこと)を與えた」
「自由恋愛説が官学の中から鼓吹され、当の文部大臣の家庭に三角恋愛を生じたごとき、当時の欧化熱は今どころじゃなかった」
※いずれも「おもい出す人々」内田魯庵著(昭和7年刊)

とはいえ、日本に新たな文化・風俗を急速に浸透させたことは間違いないようです。霞が関あたりはおしゃれな洋風の建物が並びたち、洋服を着飾った貴婦人たちが闊歩。鹿鳴館からはオーケストラによる優雅な旋律がほのかに聞こえてくるという、現在からは想像もつかない最先端の文化都市の様相が描かれています。

良くも悪くも、日本に多大なインパクトを残した鹿鳴館。井上失脚後は華族会館として使用され、1941年(昭和16年)に取り壊されました。

※参考資料:「日本憲政史を語る」尾崎行雄著、「明治時代」西亀正夫著、「おもい出す人々」内田魯庵著、「日本外交秘録」朝日新聞社著、「写真の中の明治・大正」国会図書館


鹿鳴館全景(出典:「東京景色写真版」)


鹿鳴館外交を推し進めた井上馨(出典:「近世名士写真」)

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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