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政治ドットコムトピックス板垣退助は本当に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのか?

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板垣退助は本当に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのか?

投稿日2020.12.7
最終更新日2020.12.08

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自由党結成後、演説会会場で暴漢に襲われた板垣退助。この事件そのものより、この事件から生まれたとされる名言のほうが有名かもしれません。
「板垣死すとも自由は死せず」。この非の打ち所がない名言、実は板垣本人は言っていないとの説がありますが、残された当時の資料はどのように伝えているのでしょうか。

事件直後に残されている名言の痕跡

自由民権運動の高まりを受けて「10年後に国会(議会)を開設する」と明治天皇が宣言した「国会開設の詔」が出されたのが1881年(明治14年)10月12日。
この詔を受けて、板垣退助は同年に自由党を結成し、全国各地で積極的に遊説を行います。
1882年(明治15年)4月6日、板垣は金華山の麓、岐阜県の神道中教院で開かれた自由大懇親会に出席しました。
その会で板垣は「自由党組織の大意」と題した演説を2時間にわたって行い、聴衆に深い感銘を与えると、会の終了後の打ち上げに参加しています。
しかし、長時間のスピーチと以前からこじらせていた気管支炎のために体調が優れなかった板垣は、打ち上げの途中で席を立ち、宿に帰って休むことにしました。
宴もたけなわの会場の熱を冷まさないよう、お付きのものをその場に留め、ひとりで会場の外に出ようとしたとき、事件は起こります。

事件を報じた明治15年4月12日付の「東京日日新聞」では現地からの報告を受けてこのように記事にしています。
「玄関を出て進むこと五六歩、何者とも知らず突然後ろより板垣に飛びかかり抱き附きしと見えたるが、早くも袖の後ろより電光一閃、たちまち一振りの短刀を右手に握り前に廻し、板垣氏の右胸の上部へグザと突き立てたり」(※一部送り仮名、読点等筆者変更)
時間は午後6時。日は西に沈もうとしているところに起こった凶行でした。

俗説ではこの時の様子をこのように伝えます。
暴漢に襲われた板垣は相手に屈せず、左手で相手の腕をとらえたとき、異変を聞きつけた自由党役員の内藤魯一が駆けつけ、暴漢を仰向けに押し倒すと、板垣は刺客をハッタと睨みつけ、こう叫んだ。
「板垣死すとも自由は死せず!」
全身を流れる板垣の鮮血とともにほとばしり出たこの一言は、その場にいた全員の心を震わせたーー。
この名言、実は本人は言っていないというの説があります。
板垣自身が自伝で「とっさのことで言葉も出なかった」というのがその根拠となっているのに加え、暴漢に刃物で刺された人間がとっさに叫んだ言葉にしては出来すぎているというのは一理あります。
ではあるのですが、資料を紐解いていくとあながち捏造とも言い切れない痕跡が残っていることがわかります。

事件発生から4日後の4月10日に提出された御嵩警察署長宛の「探偵上申書」を見てみましょう。
当時、自由民権運動を社会に広げようとする自由党の活動は、お上にとって目障りなものでした。そのため、演説会の会場付近には必ず警察官が配備され、監視していました。
上記の「探偵上申書」を書いたのは、事件当日、会場にいた岐阜県の御嵩警察署に所属する警察官の岡本都嶼吉です。
事件が起こったとき、岡本は宴席の会場内にいました。
板垣が玄関に向かうのを目で追うと、数分後に外で騒ぎが起こり、なにかが地面に倒れる音を耳にします。
不審に思った岡本が現場に駆けつけると、板垣が起き上がり流血しながらこう叫んだと記しています。

「吾死スルトモ自由ハ死セン」(原文ママ)

同種の資料は他にもあります。
当時、岐阜県の警部長を務めていた川俣正名が、岐阜県令小崎利準宛に事件のあらましを伝えた資料「供覧文書」です。
この「供覧文書」は、事件から3日後の4月9日に提出されました。
ここには、刺客に刺された板垣が、彼に向かって「自由ハ永世不滅ナルベキ」と語りかけたと記されています。

まだあります。
事件の2日後にあたる4月8日から連日事件を伝えた「東京日日新聞」の4月12日付の記事でも、襲われたことを嘆いた現場の人間に「諸君、嘆ずるなかれ。板垣退助死するも日本の自由は滅せざるなり」と語りかけたと伝えています。

「板垣死すとも自由は死せず」の名キャッチコピーを作ったのは、自由党お抱えのジャーナリストだった小室信介だとの説があるのですが、メールも携帯電話もない当時、電報だけで警察から新聞社まで各方面に数日間で手配することは、いかに天才的なコピーライターであろうとも容易なことではありません。

世間に流布しているこの歴史的な名言、あながちまったくの「伝説」ではないのかもしれません。

※参考資料:「東京日日新聞」/「公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年」/「幕末明治風俗逸話事典」(紀田順一郎著)/「近世暗殺史」(村雨退二郎著)/「明治大正流血史談」(小松徹三著)

板垣君遭難之図。事件が世間に伝わると、このような絵が描かれた。


岐阜県警が作成した犯行当日の現場図も残されている。板垣が襲われたのは図の真ん中あたり。その右手側で相原は取り押さえられている。


板垣の襲撃事件を報じる第一報(東京日日新聞)。犯人の相原は、東京日日新聞の愛読者だった。東京日日新聞の報道姿勢は板垣を時に捏造記事を作ってまでも罵っており、それらの記事に影響されて犯行に及んだと言われている。

◎東京日日新聞の記事を読み下し
板垣君、ただいま当地懇親会の帰りがけ、刺客のために胸と顔を刺されたり。傷浅し、安心せよ。刺客はすぐ捕らえたり。委細後から。
六日午後7時45分発

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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