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政治ドットコムトピックス自民党結党以降の「非世襲の総理大臣」を徹底調査(前編)

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自民党結党以降の「非世襲の総理大臣」を徹底調査(前編)

投稿日2020.12.7
最終更新日2020.12.08

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2020年9月16日に就任した第99代内閣総理大臣菅義偉氏は、海部俊樹氏以来約30年ぶりの「非世襲」の自民党所属の総理大臣として話題を集めました。
では、1955年の自由民主党結党後に首相を務めた人物の中で、「世襲ではない自民党所属の首相経験者」について調べてみました。
前編は、戦後からバブル経済前の昭和49年までです。

野党からも「潔い」と賞された退任劇

石橋湛山(首相在任期間:1956年12月23日〜1957年2月25日)
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた石橋は、大卒後に毎日新聞社に入社、ジャーナリストとして活動を始めます。
大正時代に入ると、大正デモクラシー下のオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱したことで知られ、リベラルな言論人として活躍します。
1936年(昭和11年)からは町会議員としても活動し、ジャーナリストと政治家の二足のわらじで活動を続けます。
1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から出馬。落選しますが、同年5月に成立した第1次吉田内閣に大蔵大臣として入閣しています。
敗戦国である日本の蔵相として、アメリカに強気の姿勢で接していた石橋は、1947年(昭和22年)に行われた第23回衆議院議員総選挙に当選するも公職追放の憂き目に遭います。
復帰を果たしたのは7年後の1954年(昭和29年)。第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任しています。
鳩山内閣は第3次まで続き、日本とソ連との間に国交回復を成し遂げると退陣、実質上はじめての自民党総裁選を勝ち抜いた石橋が内閣が組閣します。
ところが、内閣発足からわずか1ヵ月後に石橋が脳梗塞で倒れ職務不能に。わずか71日間で引退を表明しています。

A級戦犯から総理大臣へと上り詰めた「昭和の妖怪」

岸信介(首相在任期間:1957年2月25日〜1960年7月19日)
第56〜57代内閣総理大臣を務めた岸自身は山口県庁に務める父を持つ「非世襲」ですが、弟には後の総理大臣佐藤栄作、娘婿には自民党幹事長を務めた安倍晋太郎、その晋太郎の息子には安倍晋三と、一大政治一族を形成しています。
岸は東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任すると、当時建国されたばかりだった満州国の国務院高官として権勢をふるいます。
戦後、太平洋戦争開戦時には東條英機内閣で重要閣僚(商工大臣、のちに国務大臣)を務めていたことから極東国際軍事裁判に掛けられ、A級戦犯被疑者として3年半拘留されています(その後不起訴のまま無罪放免)。放免後、公職追放は免れませんでしたが、のちに解除されています。
やがて政界に復帰すると、弟である佐藤栄作が属する自由党に入党。ところが吉田茂と対立して除名されると、日本民主党を結党。1955年に保守合同で自由民主党が結党されると幹事長を務めました。
石橋湛山内閣で外務大臣に就任するも、石橋は脳梗塞で療養に。その間は岸が臨時代理を務めますが、ほどなく石橋内閣が総辞職すると内閣総理大臣に指名されました。
首相時代は日米安保体制の成立に尽力し、同時に巻き起こった60年安保騒動もなんとか対処。首相退任後も政界に強い影響力を持ち続けました。

日本史上もっとも明快なスローガン「所得倍増計画」

池田勇人(首相在任期間:1960年7月19日〜1964年11月9日)
第58〜60代内閣総理大臣を務めた池田は、広島県豊田郡吉名村で酒造業を営む名家の末っ子として誕生します。
京都帝国大学法学部を卒業すると大蔵省に入省、活動を続けるものの、宇都宮税務署長を務めていた1929年に、当時「不治の病」といわれていた難病の落葉状天疱瘡を発症し、以後5年間にわたって休職。この期間中に最愛の夫人も亡くす不遇の時期を過ごします。
1934年に奇跡的に完治すると大蔵省に復帰。国税課長など税金畑を歩んでいる時期に終戦を迎えます。
戦争時、政治的な活動をしていなかったことが功を奏し、池田は公職追放されることはありませんでした。
そして迎えた1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣は石橋湛山)の下で大蔵次官に抜擢されます。
1949年の第24回衆議院議員総選挙に出馬すると初当選、その知識を生かしてアメリカ占領下の日本の経済政策を推し進めます。
一時期、雌伏の時期もありますが、着実に地力を蓄え、1960年7月19日に内閣総理大臣に就任します。
その前年、1959年2月22日に郷里広島で行った時局演説会で初めて公に発した「所得倍増計画」「月給倍増論」は、大流行語となり、経済を重視したその政策は日本に高度経済成長をもたらします。
自由貿易も推し進め、首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げています。
ところが1964年、診断の結果、喉頭がんが見つかり、東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明。療養に努めたましたが、翌1965年8月13日に亡くなりました。

拘置所から出馬し立候補するバイタリティ

田中角栄(首相在任期間:1972年7月7日 – 1974年12月9日)
第64〜65代内閣総理大臣を務めた田中は、父方の祖父が建設業を営む決して貧しくはない家庭に生まれました。
しかし、父が競走馬ビジネスに手を出して失敗、家勢は傾いてしまいます。
高等小学校を卒業すると土木工事現場で働き、1934年に上京。工業専門学校に通いながら住み込みの職場を転々として暮らしています。
19歳の頃、自ら設計事務所を開設すると、理化学研究所の関連会社との取引を開始。後に政治家として活躍する基盤を作り上げています。
1942年の太平洋戦争中に妻の実家の土建業を25歳の若さで引き継ぐと、軍関係、理研関連の業務を多数受注し急成長。戦争末期には朝鮮半島への大規模な工場移転の仕事を引き受けるなど、多額の資金を手に入れることになります。この資金が、後年、政治家としてのし上がっていくための元手となったと言われています。
1946年、戦後初めて行われた衆議院議員選挙に出馬するも落選。満を持して翌年の総選挙に地元新潟で打って出ると、みごと当選を果たします。
この際には、自身の会社の出張所を選挙区内に設け、現地採用の社員を多数動員すると同時に、理研の柏崎工場を中心に大票田を開拓しています。
後の田中の代名詞となる金権選挙、企業ぐるみの選挙は、すでにこのときから確立されていました。
1948年10月、第2次吉田茂内閣で法務政務次官に任用。ですが、前年の議会で炭鉱業者から賄賂を受け取っていたことが明るみに出て(炭鉱国管疑獄)辞職。逮捕された上に拘置所に収容されています。
ところが転んでもただでは起きないのが田中角栄。同年の年末に解散総選挙が行われると、田中は拘置所から立候補し、堂々2位で当選する離れ業を演じます。
以降、自民党の副幹事長、衆議院商工委員長を経て1957年に岸信介内閣の郵政大臣として入閣。まだ39歳の若さでした。
さらに自民党政務調査会長、自民党幹事長、通産大臣を務め、ついに1972年7月、内閣総理大臣の地位まで上り詰めています。

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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