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政治ドットコムトピックスアメリカの奴隷から日本の総理大臣へと至った人物は誰?

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アメリカの奴隷から日本の総理大臣へと至った人物は誰?

投稿日2020.12.3
最終更新日2020.12.03

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2020年6月現在、アメリカを始めとする世界各国では、黒人の地位向上を目指した運動、「Black Lives Matter」が広く展開されています。
人種差別撤廃運動が世界各地で拡大している現在ですが、わずか100年ほど前は、人間の奴隷扱いは当たり前に行われていました。
かつて、日本で総理大臣を務めた偉人の中に、アメリカで奴隷として扱われていた人物がいます。
正式に奴隷契約書を締結され、その身を売買された彼は、偶然によって奴隷の地位から脱し、奇跡的に日本に帰ってくることができました。

自分が奴隷だとは思っていなかった高橋是清

大蔵大臣として辣腕をふるい、後には総理大臣も務めた高橋是清。
その風貌から、「だるまさん」の愛称で国民にも親しまれた是清は、1854年に幕府御用絵師・川村庄右衛門のもとに生を受けました。
生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になった是清は、俊才を発揮し、1865年に11歳で、横浜のアメリカ人医師だったヘボンの私塾であるヘボン塾への入塾を果たします。
その2年後、13歳になると、仙台藩の命で勝海舟の息子・小鹿らとともに、アメリカへの留学を命じられます。

この留学ですが、藩内では否定論も強かったようです。
大輪董郎によって1911年に著された「財界の巨人」によると、「当時、彼の腕白常人を超え、尋常一様の小僧の悪戯にあらず、藩中彼を米国に派するは却(かえ)って藩の恥辱なるべし」との意見があった、とのことです。

そんな反対論もありましたが、無事、是清はアメリカへと渡ります。
横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードの力を借りて、サンフランシスコへと向かった是清ですが、リードに学費や旅費を着服されるなど、スタートから留学は多難続きでした。

ようやくたどり着いたアメリカは、日本とは雲泥の差の発展を遂げていました。
前述の「財界の巨人」では、「当時の日本は日本人から見ても野蛮国(※注:一流国からは程遠いという意味)だ。アメリカ人から見たら、なお一層そう思ったに違いない」と述べられています。

13歳でアメリカに渡った是清に、さらなる試練が襲いかかります。
是清は、彼を受け入れてくれたあるホームステイ先に寄宿していたのですが、どうも、聞いていた話と違います。
学校に通わせてくれると言っていたのに、家の雑用しかやらせてくれない。
朝から晩まで働き詰めで、勉強する時間もない。
これでは国に帰れない。
意を決して是清は、ホームステイ先に文句を言います。すると、
「そうか分かった。私の知り合いに、お金持ちの農家がある。そこが君を受け入れてくれると言っている。これが、そのホームステイの契約書だ。たくさん勉強できると書いてある。すぐにサインして、そちらの家に行きなさい」

これ幸いと、契約書にサインをして引っ越しの支度をする是清。
彼は、次のホームステイ先であるオークランドのブラウン家へと移動します。

ようやくこれで勉強できると意気揚々と向かった是清ですが、なぜか、前にも増して、労働ばかりの毎日が続きます。
牧童として家畜の世話をやらされる、ぶどう畑で収穫の手伝いをやらされる、食事も粗末なものしか与えてもらえない、朝から晩まで働き通しで寝る暇もない。

「農家で奴隷として働かされている日本人がいるらしい」
そんな噂を聞いたのは、同時期にアメリカに留学に来ていた、仙台藩の重役、富田鉄之助でした。
「仙台藩の少年が、奴隷に売られている」
そう聞いた鉄之助は、慌ててその少年のもとに向かいます。

会ってみると、まさかの是清。
「一体何をしているんだ?」
「はあ、勉強しております」
ただちに、是清がサインした契約書を確認すると、まごうことなき奴隷契約書。これはすぐに契約を解除しなければと、ときのサンフランシスコ総領事だったブルックスに掛け合い、なんとか奴隷契約の解除に成功します。

自由の身となった是清は、鉄之助らと伴って帰国します。
日本にたどり着いたのは1872年(明治元年)11月のことでした。

もしも、鉄之助が噂を聞きつけず助けを及ぼすことがなかったら、是清が帰国できたのは数年先、もしくは数十年先だった可能性があります。
そうなれば、後の男爵高橋是清も、日本銀行副総裁の高橋是清も、大蔵大臣、そして総理大臣の高橋是清も生まれ得なかったと考えると、運命を感じざるを得ません。

ちなみに、奴隷として働かされていた頃、是清自身は「なんともキツイ勉強だ」と考え、自分が奴隷として扱われているとは、微塵も思っていなかったとのことです。

参考資料:大輪董郎著「財界の巨人」(明治44年発行)

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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